月刊平凡の81年10月号の、1ページ目です。
まだ高校3年生。堀越の制服ではないけれど、セーラー服が似合う年頃のチェミーです。
ホリプロは山口百恵の時代から、 歌とドラマ・映画を両立させたアイドル作りを目指す
事務所でした。チェミーの2年後輩に当たる堀ちえみも、この手法で成功しました。
歌がヒットしなくても、ドラマで活躍したアイドル出身者が多いのが特徴です。
しかし主催するスカウトキャラバンは、初代の榊原郁恵は成功しましたが、
その後は、西村まゆ子・能瀬慶子・比企理恵、チェミーの1年後輩の林紀恵が、
泣かず飛ばずでした。顔を見れば、とてもアイドルとはいい難い顔なので、当然でしょう。
80年当時は、チェミーはホリプロ所属だとは思っていませんでした。浜田朱里
(大映テレビ「赤い魂」に主演)か、柏原よしえが、ホリプロ所属だと、勘違いしていました。
スカウトキャラバンでは、アイドルらしい可愛い子を発掘出来ず、山口百恵を獲得した
スター誕生で、チェミーを獲得し、社運をかけて売り出したのかも知れません。
しかしホリプロは、明るくて元気で可愛いアイドルの売り出し方のノウハウを、
まだ持っていませんでした。(榊原郁恵も、7曲目「夏のお嬢さん」のヒットが無ければ、
どうなっていた事か。)チェミーがデビュー曲「スタア」の後、迷走してしまったのは、
ホリプロにノウハウが無かったからでしょう。チェミーが引退後も、榊原郁恵と連絡を
取り合っていたのは、自分と似たキャラを感じていたからかも知れません。
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